09 mai 2010

5月8日 le samedi 8 mai 2010 西サハラ問題他 Sahara occidental, etc

Le 8 mai 2010, samedi
快晴。

西サハラ問題についてブログ「日本カタンガ協会」に書いた。スペイン領だった西サハラ(モロッコの南、モーリタニアの北)からスペインが引き上げたとき、1975年11月のことであるが、そのとき「緑の行進marche verte」といってモロッコから多くの住民が西サハラにむかって行進した。当時僕はアルジェにいた。新聞報道でこの行進を知ったが、モロッコ側の歓喜を伝える示威運動と受け取った(ずっと後で、マラケシから行進した友人に聞いてみると、過酷な条件下での行進だったようだ)。西サハラ独立運動があり、アルジェリアが後押しするようになるとは考えてもみなかった。アルジェリアは、自分が独立を戦争をしてフランスから勝ち取った歴史から、西サハラの独立運動派Plisalioを援助するのだといっている。米国がアルジェリア独立を支持した原則と同じである。しかし、西サハラの場合、アルジェリアの政治的思惑がちらつく。スペインは領土をモロッコとモーリタニアに返せばことは済むと思っていた。まさかアルジェリアが横槍をついてくるとは考えもしなかったようだ。75年以降、スペインは知らぬ顔である。西サハラ問題は35年を経た今日なお未解決である。国連は住民投票で決めようとしている。ところが、その投票者名簿作成で10年以上モロッコともめている。住民投票。聞こえはいい。しかし、名簿作成段階で結果が既に見えるだろう。1885年のベルリン会議で、アフリカ分割を欧州が決めたときの後遺症である。
コンゴはこの会議でベルギー王の私領になった。その領土の境界線が今の国境である。コンゴ人が決めたわけではない。シャバ州(現カタンガ州)独立戦争がコンゴ独立直後勃発、1963年までシャバはいわば独立していた。この歴史、また現在アンゴラと国境問題があるにはある。そこでモロッコに加担する宣言をコンゴの外務大臣がした。他人事ではないというのだろうが、西サハラは遠く、実質的に軍を派遣するわけでもなく、リップ・サーヴィスの域をでない。それでいいい。
国境問題などは、後進国の問題だといったのは、僕の国際法の先生である。彼は国際司法裁判所の判事になったが、きっとさまざまの国境問題にとりまかれることになったはずだ。日本は韓国や中国と領海や島の領有権で争っている。フランスだって英国と国境問題がある。スペインは例えばブラルタル問題を英国とかかえている。国境問題は後進国だけの問題ではない。ただ、EUのような新しい地域連合ができ、国境問題は薄れていく世界的傾向はあると思う。アフリカも遠い将来AUがEU並みになっていけば歴史が変わるかもしれない。
いずれにせよ、西サハラ問題にもどれば、アルジェリア独立戦争の英雄の一人だったブートフリカが大統領をしている限り、問題はまだまだ解決には向かわないだろう。

ネット検索でたまたま僕が2007年1月講演をしたときの原稿がでてきた。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/lumumba.doc
コンゴの初代首相ルムンバについて書いたものである。『アフリカ現代史の殉教者』という副題がついている。映画『ルムンバ』を上映した。懐かしい。我ながら、なかなかいいことを書いている。

3月12日以来床屋に行っていなかった。Coiffeur Rafaelにいった。いつもの理髪師だったが、髪型を覚えていない。まるでレオナルド藤田画伯のようなカットになったので、携帯中にあった短髪の写真をみせて修整を頼むと、GIカットになった。ま、いいでしょ。

ルブンバシ大学医学部の柔道家フランクランが、知事の参事官ソロモン氏に関心のある業種をいってくれれば、どんな業種でも投資許可を取得してやるという。この参事官はモイーズ知事の側近中の側近らしい。しかし、僕はカタンガに投資するためにいるのではない、「日本カタンガ協会」の趣旨説明、宣伝をするためなら参事官にあおうと返事をした。来週初めにアポを設定するとフランクラン君は意気込んでいる。

高校時代の親友STからメイルの返信あり。また元上司にして友人のNNさんからも返信がとどいた。STは一昨年病気をしたという。会社のトップとしての重責を担いながらリハビリ中だという。高校時代は水泳部、大学では確か拳法とスポーツマン。がんばってくれ。NNさんは元気そのもののようで大慶。

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