Le mardi 31 décembre
2013
7時、快晴。
ケープタウンの街にまたまた出た。ウォーター・フロントは僕たちの趣味に合わない。古い建物を残す駅前の中心街の方がずっと興味を引く。今日はカメラをもってきたので街並みを写す。
ケープタウンも一生住みたいなと思わせる街である。僕はいろいろところでそう思った。ルガノもそうだし、ジュネーブ、バルセロナ、カナリア諸島、アルジェ、ダカール、神戸、バンコク、マルガリータ島などだ。思い出の場所ということではなく、家を買おうと思ったり、仕事を探したりしたところだ。それぞれ事情があって実現しなかった。
ケープタウンの郊外電車をメトロレールMetrorailという。地下鉄でなくてもメトロポリタンであるケープタウンを走るのだからメトロでいい。このメトロにクラスがある。ムイゼンバーグ駅の窓口でメトロ・プラスかメトロの切符かどうか聞かれて初めて認識した。以前は1等車、3等車といったらしい。僕はそのどちらにも乗ってみた。殆ど内装が変わらない。メトロ・プラスの方が白人が多く、メトロはほとんど黒人ばかりの乗客であった。窓口で切符を買うときに黒人以外だとメトロ・プラスの切符を自動的に発行してしまうようだ。自動切符販売機は何処にもなかった。そういえば、5ランド(50円)までコインがあるのにコーラの自販機さえ南アにはなかった。コインまたはカードでかけることができる公衆電話があったが、壊れていない電話機の方が珍しいようだ。携帯電話の時代だから公衆電話をかけている人をみかけなかったことも確かである。
メトロレールには必ず少年が手を引いた盲人が乗ってきた。少年と二人で賛美歌を歌い少年が空き缶に寄付を募る。クリスチャンはいつも小銭を用意していて空き缶に入れていた。
大声で説教をする牧師も乗り合わせる。彼らは無心をすることもあるし、只説教をするだけの場合もある。
セントラル地区の一角に小さなゴールド博物館Gold Museumがある。28日の市内ツア・バスのときにこの博物館の前を通って時間があったら来ようと思っていた。入り口からして金ぴかなのであるが、入り口の金ぴかはペンキだった。主として西アフリカ、ガーナやトーゴ、コート・ジボワールの金文化の品々が展示されていた。南アフリカのズールー、ホッテントット、ブッシュマンたちは金に関心がなかった。ヨハネスバーグは金鉱から始まった都市だが、これは19世紀に入って西欧人が金を掘り出したためであって、先住民にとっては与り知らぬ開発だった。金細工の仮面や装飾品、さらに王冠などが権力の象徴として珍重されたのはマリを始めとした地方だったことを習った。植民地時代に入る以前、欧州ではマリが黄金の国だといわれていたことは知っていたが、金産出世界トップだった南アでは先住民たちに無視された金だったとは。
ランチは再び「Fuji Yumi」へ。一昨日のケープ・ポイントのツアに参加していた男性がいたので目で挨拶したが、それだけで言葉を交わすことはなかった。ツアには新婚さんらしい日本のカップルもいたがどうもよそよそしい。
グリーン・マーケット広場のメソジスト教会隣にあるThe Old Town HouseでMichaelis Collectionとあったので入った。この建物は由緒あるもので1755年にケープタウンで初の公共施設(市役所)として立てられた。それが1914年にMax Michaelisの寄贈したコレクションを展示する美術館になった。ケープタウン初の美術館でもある。Max Michaelisは1876年に南アに入ったドイツ人実業家(投資家)。ケープタウンの美術館に寄付したコレクションはほんの一部で、他にキンバリーやヨハネスバーグの美術館にも彼の蒐集した作品を寄贈しているそうだ。The Old Town Houseにあるのは17世紀のオランダ絵画である。この具象画に20世紀の抽象画を取り混ぜて展示していた(『バロックと近代の顔合わせBaroque Meets Modern』)。それがちょっと異様に感ぜられた。初期オランダ絵画だけの展示の方がまとまりがあるように僕には思える。
カメルーンでナイジェリアのボコ・ハラムに11月13日誘拐されたジョルジュ神父が解放された。カトリック教会にとって朗報である。ナイジェリア政府およびカメルーン政府が人質解放交渉をした由だが、例によって詳細は不明だ。
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